岐阜県(垂井町・関ケ原町)
垂井宿 Tarui-juku
「垂井宿」は、中山道と美濃路の分岐点であり、古くから交通の要衝として栄えた。文化年間に建てられた油屋宇吉家跡のほか、現在も宿泊ができる安永年間に建てられた旅籠・亀丸屋などの旧家が現在もその姿をとどめ、宿場町の趣を存分に感じることができる。 垂井宿界隈では、平成23(2011)年に垂井町観光協会や商工会など5つの団体が中心となり「垂井宿にぎわい推進協議会」を設立。かつて中山道各宿で盛んに行われていた「六斎市」を復活させたり、スマートフォン用の観光案内アプリを開発するなど、積極的な活動を行っている。また同協会では、ウオーキングイベントも積極的に企画しており、泉などの水関連スポットを巡るものや、松尾芭蕉がこの地で多くの俳句を残したことにちなみ吟行をテーマにしたウオーキングなども企画。活性化に向けた取り組みが実に豊富だ。
アクセス
公共交通機関
JR「垂井駅」から徒歩約10分
お車
名神高速道路「関ヶ原IC」から約15分
見どころ
美濃国分寺跡
聖武天皇の頃、国情不安を鎮撫するため、各国に国分寺の建設が命じられた。美濃国分寺は全国でも最大級の規模を誇り、当時は七重の塔もそびえ立っていた。美濃国司は源頼光が務め、『今昔物語』や『御伽草子』の主人公でもあり、坂田金時などの四天王を擁したことでも知られている。
旅籠 丸亀屋
1777年に建てられ、県内の中山道で江戸時代から営業を続けている二軒の中の一軒。鴬張りの廊下や外から中の様子が見えにくい造りが当時のまま残っている。鬼が亀を咥えた鬼瓦が南側の大屋根を飾っている。
南雲大社と石鳥居
南宮大社の石鳥居は、寛永19年(1642)将軍徳川家光が社殿を再建した際、石屋権兵衛が高さ715cmの明神型石鳥居を約400両の金で造られた。古くから美濃地域には建部(たけるべ)や伊福部(いぶきべ)などの軍事や製鉄に関わる部民(べみん)が居住し、兵器に関わる役所が多数あった。
垂井の泉・玉泉善寺
樹齢約800年の大ケヤキの根元から湧き出ている清水は、どんな日照り続きでも枯れることがないという。1691年には、松尾芭蕉が「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」とここで一句詠んだという。
お休み処 長浜屋
江戸時代に旅籠屋として栄えた築200年以上の屋敷が残る。13代将軍・徳川家定に嫁ぐ有姫ら総勢3200名が垂井宿に泊まった際には、御輿担ぎが23名も泊まったという記録がある。
垂井一里塚
この一里塚は当時の姿を留めており、中山道の中でも完全に残っているのは垂井の一里塚と東京都板橋区志村の一里塚のみ。
関ケ原宿 Sekigahara-juku
天下分け目の決戦地・関ケ原にある宿場町。北からは北国脇往還、南から伊勢街道がつながる交通の要衝で、美濃16宿の中で人口は3番目、宿の長さも2番目の規模を擁し、発展を遂げた。現在、中山道は国道21号に姿を変えたため、遺構は少ないが、かつて旅籠で、創業永長元年(1096年)という枡屋は現在も旅館として営業を続けている。また、脇本陣を務めた相川家に残る脇本陣門も名残をとどめて、当時をうかがい知ることができる。
アクセス
公共交通機関
JR「関ケ原駅」から徒歩約5分
お車
名神高速道路「関ケ原IC」から約5分
見どころ
野上の松並木
中山道の中でも、松並木が残っている場所は非常に少なく、全国的にも珍しい。樹齢300年を超える野上の松並木は、夏の日差しを避け、冬の防風・防雪の役目を果たし、中山道を行く多くの旅人たちの休息の場所であった。また、戦が起こった時には、この松を切り倒して砦を作る目的もあったと言われている。
関ケ原宿・本陣跡
現在は本陣の庭があった場所に八幡神社が建っており、古木スダジイが往時を偲ばせてくれる。関ケ原宿本陣の門構えは現在、垂井宿の本龍寺に移築されている。
岐阜関ケ原古戦場記念館
天下分け目の戦いとして名高い関ケ原の戦いが繰り広げられたこの地で、歴史の1ページを体感できる最新技術を終結した体験型の施設。周辺の史跡を訪れることで、さらに関ケ原の戦いを理解することができる。
不破の関跡
672年の勃発した壬申の乱では、この付近を境に東方の大海人皇子(天武天皇)と西方の大友皇子(弘文天皇)が対峙し合戦となった。翌年、戦いに勝利した大海人皇子は個々を要所として「不破の関」を置いた。東山道の美濃不破の関は、東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛知(あらち)の関とともに、古代律令制下の三関のひとつとして重要視された。
藤古川
大友皇子と大海人皇子の軍が関ケ原で戦った壬申の乱では、藤古川を挟んで両軍が対峙した。川を挟んだ地域の住民のそれぞれの軍を応援し、その後、東方は天武天皇を、西方は弘文天皇を祀って氏神としたという。藤古川は古くから詩歌にその名を知られた場所でもある。
今須宿 Imasu-juku
妙応寺の門前町として栄えた「今須宿」は、美濃路最後の宿場町。宿の長さは1,189メートルあり、「加納宿」、「関ケ原宿」に続く大きさを誇った。宿の規模に比べて旅籠は13軒と少なかったが、問屋場が7軒あり、商業地として相当な賑わいを見せていた。現在の宿場町は、静かな山間の里といった風情で、問屋場家屋として現存する山崎家の古民家に往時の繁栄ぶりを垣間見ることができる。
アクセス
公共交通機関
JR「関ケ原駅」から徒歩約5分
お車
名神高速道路「関ケ原IC」から約5分
見どころ
鴬の滝
水量が豊富で清涼な空気のこの地は、美濃中山道の西の難所であった今須峠を越える旅人たちの憩いの場所であった。古くは東山道の宿駅として、人や荷物で賑わったと言われている。
常盤御前の墓・松尾芭蕉句碑
都一の美女と言われ、16歳で源義朝の側室、その後平清盛の側室となった常盤御前。鞍馬山にいた息子・牛若丸(源義経)が東国に行ったと知りその後を追い、この付近で賊に襲われ命を落とした。哀れんだ里人たちがこの地に葬ったと言われている。墓のそばにある芭蕉の句碑は『義朝の心に似たり秋の風』と記されている。(意訳:このあたりの様子は、悪逆非道の果てに非業の死を遂げた義朝の心中にどこか似ているようだ)
今須峠
明治時代まで、標高160mほどの急勾配のある坂道であった今須峠は、積雪が多く中山道の難所のひとつとされていた。かつては頂上辺りに茶店があり、往来する旅人の疲れを癒す場所として賑わっていた。
妙應寺
正平15年(1360)に、今須領主・長江重景が母である妙応尼の菩提を弔うために峨山禅師(総持寺2世)を招いて開山したのが始まりとされる県下で最も古い曹洞宗寺院。宝物館には、町の重要文化財の文書をはじめ、当地出身の喜田華堂筆の縁起絵巻などが展示されている。
問屋場跡
今須騒動で知られる問屋場。明治22年に今須の与八という木挽職人が中心となって一揆を起こした。生活難に苦しんでいた村人は、手にヨキ、ナタ、ノコギリ等の刃物を持って村役人宅を襲った。この建物にもその時の傷痕が残っている。
寝物語の里
かつて、近江と美濃の国境は細い溝であった。その溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに寝ながら隣国にいる人と話ができたことから寝物語という名が生まれた。寝物語は中山道の名所として、広重の浮世絵にもなり、歌人の歌にも詠まれている。