岐阜県(各務原市・岐阜市)

鵜沼宿 Unuma-juku

「鵜沼宿」は、大安寺大橋から西にかけてのエリアが、宿場町の面影を色濃く残している。平成18(2006)年から再生事業がスタートし、平成20(2008)年に「中山道鵜沼宿町屋館」がオープン。その昔、旅籠を営んでいた武藤家から建物の寄進を受け整備したもので、古い町屋の特徴を伝えている。平成22(2010)年には、「中山道鵜沼宿脇本陣」が復元された。これは「鵜沼宿家並絵図」を元に現代に蘇らせたもので、格式高い建物の特徴を見ることができる。平成23(2011)年にはせせらぎ水路を設置し、電線の地中化工事や駐車場も新たに整備し、再生事業は完了。訪れる人々に「鵜沼宿」の魅力を強く印象づけている。

 

アクセス

公共交通機関

名鉄「鵜沼宿駅」から徒歩約15分

お車

東海北陸自動車道「岐阜各務原IC」から約20分



見どころ

猿啄城

かつて勝山(城山)山頂にあった猿啄城は、現在では展望台となっており、木曽川と周辺の山々を除く素晴らしい眺望が楽しめる。

うとう峠

鵜沼宿の西、およそ3里(12km)のかかみ野は広がっており、人家もなく山賊などのが出没する、旅人にとっては恐ろしく寂しい難所であったという。美濃の中山道の難所のひとつであった「うとう峠」は、「疎う」が由来であるという。

旧大垣城鉄門(くろがねもん)

大垣城本丸の表口に建てられていた高麗門形式の鉄門で、市内の旧家に払い下げられた後、各務原市に寄付され、中山道鵜沼宿町屋館の駐車場に移築された。


鵜沼宿町屋館(旧武藤家住宅)

武藤家が絹屋の屋号で旅籠を経営、後に郵便局にもなっていた建物。中庭を囲むように主屋、付属屋、離れの3棟が配置され、鵜沼宿の町屋の特色を今に残す復元建築物。各務原市歴史民俗資料館も兼ねている。

本陣跡

本陣は江戸時代を通して桜井家が務めていた。桜井家は問屋と西町の庄屋も務めていたが、明治時代に入って宿駅制が廃止されると、本陣の一部は小学校として利用されるようになった。敷地内には尾張徳川家より拝領した手水鉢がある。

鵜沼宿脇本陣資料館(坂井家)

江戸時代に鵜沼宿の脇本陣を務めた坂井家の古絵図を基に復元された。本陣や脇本陣のみに許された門や玄関、上段の間があり、大名や公家が泊まった格式高い伝統的な和建築が見られる。松尾芭蕉も宿泊しており、その折に詠んだ俳句の碑が敷地内に建てられている。



加納宿 Kanou-juku

「加納宿」は、加納城を中心とする城下町。古くから宿場町と城下町の両面で栄えたが、太平洋戦争の空襲により、町のほとんどを焼失した。 戦災によって宿場町らしい景観を失ってしまった「加納宿」ではあるが、それが逆に地元の人々が強い思いを持って結集する原動力になった。昭和54(1979)年には、地元の人々が「中山道加納宿文化保存会」を結成。現在は約800人の会員を有し、年2回「加納宿」の歴史や自然を伝承する会報を発行するほか、標識の設置やガイドボランティア、ルートマップの作成、「美濃中山道ふるさとまつり」への協力など、精力的に活動を行っている。

 

アクセス

公共交通機関

JR「岐阜駅」から徒歩約5分

お車

東海北陸自動車道「岐阜各務原IC」から約20分



見どころ

細畑の一里塚

慶長9年(1604)につくられた細畑の一里塚は、街道の両側に土を盛って榎の木を植えた、当時の面影を残す貴重な一里塚。

水薬師

あるとき清水川で少年が川床にあった薬師如来の黄金仏を拾い上げた。美濃国加納城の城主・奥平九八郎信昌に嫁ぎ「加納御前」と呼ばれていた、徳川家康の長女・亀姫は、この清水川に浮御堂を建立しこの黄金仏を安置した。その後、周意禅師が沼を埋め、現在の地に再建したのが水薬師であるという。この黄金仏は女子の加護にご利益があり「美濃の国の乳薬師」としても有名。

中山道加納宿まちづくり交流センター

2020年10月、加納宿を中心とした中山道沿道の歴史文化の継承を図り、まちづくり活動の拠点として開館。館内には和傘や加納城のジオラマなどが展示され、加納の歴史文化に触れることができる。


本陣跡 皇女和宮仮泊所跡

加納宿には松波家が務めた建坪170坪の本陣があった。ここには文久元年(1861)、公武合体により徳川家に嫁ぐため皇女和宮が降嫁された折、宿泊したという記録が残っている。

中山道加納宿脇本陣跡

大きな宿場だった加納宿には、現在の加納本町4丁目に森家が代々務めた建坪140坪の脇本陣が、加納本町3丁目には当分脇本陣(期間限定の脇本陣)が設けられていたこともあった。



河渡宿 Goudo-juku

長良河畔の渡船場に設けられた小さな宿場町「河渡宿」。現在は一里塚などに面影を偲ぶことができるのみ。それでも近年では岐阜市が「美濃中山道連合」に加盟した一環で、「加納宿」から「河渡宿」にかけて統一サイン設置を計画している。また、行政だけでなく、地元の人たちも常夜灯のオブジェを設置したり、のぼりを立てて中山道や宿場町を積極的にアピールしたりと、にわかに「河渡宿」をクローズアップする意識が高まってきた。最近では「いこまい祭 中山道河渡宿」と題したまつりを企画・開催している。地元住民による草の根的な活動が活発化しており、今後の展開が楽しみである。

 

アクセス

公共交通機関

JR「穂積駅」から徒歩約30分

お車

名神高速道路「岐阜羽島IC」から約30分



見どころ

鏡島港跡

豊臣秀吉の時代から栄えていた長良川の船運湊。天正20年(1592)、岐阜城主・織田秀信は鏡島に新町を作り、この湊以外陸揚げさせないとし、岐阜城下町の外湊として支配した。関ケ原の合戦後は加納藩が管理し、明治時代の後半まで使われていた。

馬頭観世音菩薩堂

天保13年(1842)河渡宿の荷駄役らが寄進し、家内安全・五穀豊穣を祈願し、愛染明王を祀った馬頭観音堂。

河渡宿一里塚跡・松下神社石碑

河渡宿は土地が低く、雪や少しの雨でも宿場が泥沼のようになっていた。江戸時代、美濃郡代・松下内匠は4年の歳月をかけて宿場全体に5尺盛土をして家屋を移設。以降は水害の心配がなくなり、住民はその功績を称え後世に伝えるために、松下神社を建立した。